オリジナル/短編集/SWEET PAINシリーズ 第1話 page3
扉上に取り付けられた液晶モニターに表示される通過階数を示す数字が、くるくると変わり、やがて目的のフロアに到達すると扉が静かに開いた。
加藤に従ってエレベーターを降りると、そこは大理石で化粧されたエントランスフロアだった。
あたりを見回しても、目に入る玄関扉は一つしかない。
戸建ての家で使われるような大きな木製の両開きの扉だ。
二人が降り立ったのは、この階を含め三戸しかないワンフロア一戸の階だった。
エレベーターを降りれば共有の通路があり地味な色味の玄関扉がいくつも列ぶ――ここは、綾人の思い浮かべるマンションのイメージとはかけ離れた場所だった。
綾人の足が止まり、そのまま玄関に向かう加藤の背を目で追った。
加藤は扉の前に進み、解錠のためにカードキーをかざした。
渋滞から抜け出すのに思ったより時間がかかったので、予定がかなり押している。
主との約束の時間まで僅かしか猶予がない。
「さあ、綾人さん」
扉を押し開いて、後ろを振り向き綾人を手招いた。
中に入るようにうながされても、既に閉まったエレベーターの扉の前で、綾人は立ちすくんだまま動かなかった。
この数時間の間、加藤は始終穏やかに綾人に接していた。
怖い人じゃないかもしれない、と綾人の警戒心はじょじょに薄れてきていた。
でも恐怖心や不安感が消えたわけでは決してない。
見知らぬ土地に連れてこられて、これからどうなるのか全くわからない身の上――
家を連れ出されてから、風船が膨らむように徐々徐々に大きくなっていった不安が、既にピークに達していた。
動かない綾人に、加藤は再び手招きする。
「綾人さん、お入りなさい」
もう一度名前を呼ばれた時、綾人の中で風船は限界までふくれあがっていた。
綾人は、加藤を見つめたままずるずると後ずさる。
背中がエレベーターの閉じた扉にぶつかると、その口から小さく叫び声が上がった。
そのまま扉に身体ごとぶつかるように身を翻してすがりついた。
エレベーターの呼び出しボタンを、がむしゃらに何度も叩く。
「帰る! 家に帰る! ここを開けて! 開けて! お願い!」
けっして開くことのない扉を、ダン!ダン!と両手で叩く。
どうやってもエレベーターの扉が開かないと解ると、他に出口は無いかと必死にエントランスの中を見回す。
上品な内装の雰囲気を壊さず目立たないように、非常階段への出入り口が設けられている。
綾人はその扉に気がつくと駆けよって、ドアノブを掴んで思い切り引っ張った。
非常時は自動的に解錠するシステムだが、平時はカードキーが必要なドアは、綾人が必死にドアノブを動かしても開くことはない。
「開け! このっ、このっ! 何で? どうして開かないの?」
押しても引いても、扉はぴくりとも動かない。
綾人は再びエレベーターに駆けよって、一層激しく扉を叩いた。
「家に帰る!お願い、開けてよ! ここを開けてぇ!」
綾人の悲痛な叫び声と、小さな両手が扉を打ち鳴らす音が、静かなエントランスに響き渡った。
加藤の仕事柄、これまでこの年頃の子供と接する機会は殆ど無かったが、半日綾人と共に行動して、彼は比較的おとなしい子だと感じていた。
事前に身元調査を行った資料でも、おとなしく内向的とあった。
クラスでも特に目立たない、フツウの子――。
父親の元から連れ出したときも、暴れるでもなく静かに加藤に従っていた。
扱いやすい子供だと思ったのに、この豹変ぶりはどうだ。
加藤は、ふぅ、とため息を一つつくと、暴れる綾人に足早に近づき、背後からその両肩を力強くつかんで、扉から身体を引き離す。
そして、両肩に加わる痛みに、ひるんだ綾人の耳元に顔を寄せた。
「帰っても、あなたを迎えてくれる人はいません。いや、帰ったら逆に追い帰されます。あなたと引き替えに借金の清算を約束したんです。逃げ帰ればそれは無かったことになる」
残酷な現実を、一言一言、噛んで含めるように伝える。
「母上の治療も中断したままだ。入院費用も滞納している。このままだと強制退院させられる事を、あなたも知っていたでしょう?」
母の事を持ち出され、綾人は苦しげに唇をかみしめる。
「あなたがわがままを言わなければ、母上は病院を追い出される事はない。もっといい治療を受けられる。今まで手が届かなかった治療が受けられる。でも、あなたが帰れば全てが無くなる。希望も未来も何も無くなります」
たたみかけような加藤の言葉に、綾人の表情に動揺が広がる。
「取り立ての連中が、お父上に乱暴を働いていた事を知っていたでしょう? 奴らがあなたも狙っていた事は知っていましたか? あのまま家にいたら、いずれ矛先はあなたに向かっていたでしょう。」
加藤は、綾人を掴む腕に一段と力を込め、ぎりぎりと締め上げた。
「うう…い、痛いッ!」
鋭い痛みが綾人に悲鳴を上げさせた。
恐怖で身体が小刻みに震えだす。
「痛いですか? 連中の暴力は、こんなものじゃありません。あなたが乱暴されても、お父上にはそれを止める力がない」
震える綾人の身体を自分と向かい合わせると、そこでようやく締め上げていた力を緩めた。
加藤は片膝をついて、振り向かせた綾人と視線を合わせる。
無慈悲な言葉とは裏腹に、綾人を見つめるその表情は優しい。
「あなたの後見人になった方なら、あなたを守ることができる。あなたを守る力のある人です。あなたが望めば、これから先もあなたの家族も守ってくれるでしょう。あなたは、ただ身を任せればいい。わかりますか? あなたの居場所はここしかないんです」
扉を叩き続けて真っ赤になった小さな両手を、加藤の大きな手が包み込んだ。
その手を自分の口元まで引き寄せ綾人の目を見つめて、言葉を続ける。
「……お父上を責めないであげてください。彼には選択肢はなかった。……家族を守る為に、あなたを手放したのです」
妻と子を天秤にかけて、妻をとった父親を、許せとはよく言えたものだ、と加藤は思う。
どんなに言葉を飾っても、父親に金で売り飛ばされたことは、紛れもない事実だ。
それを綾人がどう受け止めるか。
加藤に握られた綾人の手が小刻みに震えていた。
二度三度、瞼をしばたかせると、真っ赤になった両眼から涙がこぼれ落ちた。
頭を垂れて鼻をすする。
「ボクが帰ると、お父さんは困るんですね」
ようやく絞り出した言葉。
「ボクが言うことをきけば、お母さんもお父さんも助かるんですね」
自分に言い聞かせるように、綾人は言った。
「お部屋に入りましょう」
綾人は、こくんと頷いた。
加藤は自分のハンカチを取り出して綾人の涙をぬぐう。
いたわるように綾人の肩を抱いて、ゆっくりと玄関に向かった。
綾人はしゃくりあげながらも、今度は素直に加藤に従った。
二人の後ろで扉が静かに閉まった。
それは、綾人の人生が大きく変わった瞬間だった。
オリジナル/短編集/SWEET PAINシリーズ 第1話 page3