オリジナル/短編集/SWEET PAINシリーズ 第1話 page2
男は銀縁めがねのフレームをかるく指先で直し、
「お父上の借金は全てこちらで処理いたします。お母上の医療に関しても、私どもの主は良き方法を提案できると申しております」
綾人の身売りによって、父だけでなく母も救われる事を知らせる。
だからといって、知らぬまに父に売られたという事実を、素直に受け入れるには、綾人はまだ子供だった。
いつしか綾人は、声を上げて泣いていた。
男は、書類をアタッシュケースに仕舞い込むと立ち上がり、
「今日からこちらで綾人さんを預かります。よろしいですね。面会はこちらが許可した場合のみ可能です。連絡もお控えください」
矢継ぎ早に父親に伝えると、泣き続ける綾人の腕を取って、有無を言わさず立ち上がらせた。強い力だった。
それが綾人を現実に引き戻した。
「お父さん……!」
嘘だと言って欲しいと、絞り出した父への声は、男の刺さるような冷たい視線を受けて、のど奥に絡みついたまま呑み込まれる。
男は綾人の肩に腕をかけると、抱きかかえるようにして強引に部屋の外へ連れ出す。
二人が玄関を出るまで、父親は土下座したまま、一度も綾人を見る事はなかった。
男の運転する黒塗りの車に乗せられた綾人は、ぐったりと脱力していた。
後部座席のシートに背を預けたまま、ぼんやりと視線をさまよわせている。
声を上げて泣くことは無くなったが、涙は涸れることなく頬を濡らしている。
そんな綾人に、男は、加藤と名乗った。
「これから、あなたをお世話します。加藤と呼び捨ててくださって結構です」
返事を返さない綾人にかまわず言葉を続ける。
「これから主の元にお連れしますが、少し時間がかかりますから、お休みになってかまいませんよ」
バックミラー越しに、綾人の様子を伺う。
居心地の良い高級車の微振動が、綾人を徐々に落ち着かせていく。
車が高速に乗った頃には、綾人は泣き疲れ静かに寝息を立てていた。
「今のうちに、眠ってください、綾人さん」
加藤はそう独りごちる。
加藤の主は、今までも欲しいものは必ず手に入れてきた。
今回もそうだ。
後見人の立場を得た主が、綾人に求める事を考えると、僅かに気分が悪くなる。
可哀相な子だ――今夜は、きっと眠れない夜になる。
加藤は、まっすぐに続く道の先を見据え、軽くアクセルを踏み込んだ。
■
綾人の住む街から、二つの県を越えたところで車は高速を降りた。
初めて訪れる街だった。
加藤が教えてくれた地名は、綾人にはなじみのないものだった。
車の窓からのぞき見る景色は目新しくて、ほんの少しだけ綾人の不安な気持ちを薄れさせてくれる。
華やかな繁華街に向かった車が、高層の商業ビルが建ち並ぶ大通りに入ると、案の定渋滞に捕まった。
車で長距離を移動することがほとんど無かった綾人にとっては、渋滞ですら物珍しいイベントだ。
渋滞から抜け出すまで、じりじりと進む車の窓から、歩道を行き来する人々を眺めていれば、あっという間に時間は過ぎた。
車が高級マンションが建ち並ぶ区画に入ったのは、午後十時を回ったころだった。
高層マンションの前をいくつも通り過ぎて、その中でも群を抜いて背の高い建物の地下駐車場に、車は入っていく。
緊張と不安に加え長時間の車の移動で、すっかり疲れ果てていた綾人は、加藤にうながされてようやく車を降りた。
先を歩く加藤について広い駐車場の中を横切って行く。
駐車している車はどれも高級車ばかりで、このマンションの住人達の裕福さを物語っている。
加藤は、高層階フロア行きの専用エレベーターの前で立ち止まると、小さなカードを取り出して、扉の横に設置された装置にかざした。
このカードが無ければ、建物からの出入りやエレベーターの乗り降りも出来ない。
もちろんカードを持たない綾人が、自由に建物の外へ出ることは不可能だ。
二重三重のセキュリティで守られた豪奢な牢獄に、綾人は招き入れられたのだった。
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