オリジナル/短編集/SWEET PAINシリーズ 第1話 page1
借金のカタに売られるなんて――
時代劇だとか二時間ドラマの中だけの話だと、綾人は思っていた。
綾人の父が好んでみる時代劇で、若い娘が親の借金のカタに悪代官に売り飛ばされる話がある。
定番の筋書きなのか、繰り返し取り上げられる話だ。
たいていは遊び人に扮した殿様や、入れ墨を入れた町奉行が悪代官を成敗して、娘は無事に親元に戻ってくる。
二時間ものの現代ドラマでも、ヤクザに売り飛ばされた娘を、恐ろしいほどカンの鋭い刑事が神がかり的な推理を働かせて、番組が終わるまでに助け出してくれる。
日本人が好む勧善懲悪のドラマ――
平和な日常では体験することのない話だと綾人は思っていた。
それが、自分に起こるなんて――今日まで、思ってもいなかった。
それは、七月の半ばを過ぎた金曜日の午後の事だった。
給食時間に、父から緊急の電話があったと教師から知らされて、午後からの授業を受けずに早退した綾人の前に、土下座をした父の姿があった。
何も知らされず戸惑う綾人に、借金を肩代わりしてくれる人が居ると、父親は絞り出す様に言った。
綾人の父には、大きな借金があった。
個人が払い続けるには無理のある金額で、利子を払うと収入の大半を持って行かれる。
借金の大部分は、長い間入退院を繰り返している母の治療費だった。
保険診療がきかない高額な治療費は、平凡なサラリーマンの給料で負担できる額ではない。
父はそれを支払い続ける為に、複数の仕事を掛け持ちしていた。
そして父が稼いだ金のほとんどは、すぐに母の薬代や入院費に消えていった。
母の負った病の原因の一端は、綾人に関わりあるものだったから、生活が苦しくても文句も言わずに我慢した。
母の病が悪化してからは特に、綾人の為に使われる金は殆ど無かった。
何もかもがぎりぎりで、綾人には小学生の頃の楽しい想い出は数えるほどしかない。
はやりのゲームやマンガを買ってもらえず、友達の輪の中に入れなかったり、お金のかかる行事への参加は殆どかなえられなかった。
毎月積み立てる修学旅行の旅費も、払いきることが出来なくて、結局参加出来なかったのが、綾人にとっては一番辛かった。
けれど、そのことを辛いとか悲しいとか、父親に訴えたことは無かった。
父親が限界まで精一杯働いていることを、綾人は幼いなりにわかっていたからだ。
だが、綾人が小学校の卒業を控えた今年の春――
根を詰めて働いてきた父が、無理がたたって身体を壊し今までのように働けなくなった。
生活費もままならない上に、母の為に支払う金がすぐに底をついた。
父は少しでも金を手に入れようと、慣れないギャンブルに手を出し、すぐに全てを無くしてしまった。
行き着く先は街金で――気がつけば身動きが取れないくらい借金は増えていった。
綾人が物心ついた頃の両親は、よく笑っていた。
それは母の力が大きい。
母は大病を抱えていたけれど、いつも笑顔を絶やさない人で、寡黙な父も、母の見舞いの場では良く笑顔を見せていた。
けれど――父が笑顔を浮かべなくなって、どれくらい経つだろう。
綾人の前で、ちびた畳に頭をこすりつけんばかりに土下座をする父の頭部は、うっすらと血がにじんだ包帯にまかれている。
違法すれすれの街金の取り立てが始まって三月も経たないうちに、暴力を伴う乱暴な行為に変わっていった。
父の衣類に隠された身体の至る所に、打撲のあとが残っているのを綾人は知っている。
それが今まで矛先が綾人に向かわなかったのは、ただ単に運が良かっただけだ。
取り立てがエスカレートして行くにつれ、父の顔はいつも苦痛でゆがみ、母の前ですら笑わなくなった。
家族思いの優しい父の身体を襲う苦痛は、心の奥底に巣くい大きくなって、さらに根深く傷を抉り、真っ暗な闇の中に置き去りにする。
脅され傷つけられる暮らしが、父の心を闇に閉ざした。
闇の中では、たとえそれが悪魔のささやきであっても耳に優しい言葉になる。
差し込む僅かな光を逃すまいと、手を伸ばす。
父親は、借金の肩代わりを申し出た男の言葉に飛びついた。
男が提示した条件は、
綾人を、一人息子を手放す事――
ただそれだけ――
そして――父は、その条件を呑んだ。
「おまえが承知してくれたら、借金もなくなる。母さんの治療費も払える。――母さんを助けると思って、言うことを聞いてくれ」
病に苦しむ母を引き合いに出せば、綾人に逃げ道が無いことを充分にわかった上での言葉だった。
父は、疲れていた。
息子の人生を、他人に売り渡してもかまわないと思うくらい、心底疲れ果てていたのだ。
狭い和室に置かれた小さなちゃぶ台の向こうに、若い男が座っていた。
貧しいこの部屋にそぐわない、品の良いスーツに身を包んだ男は、無言で綾人と父の愁嘆場を見ていた。
やがて、父の前で力なくへたり込んでいる綾人に、おもむろに声をかけた。
「佐倉井、綾人さん」
低いけれどよく通る声で名前を呼ばれて、綾人はようやく男を見た。
初めて見る顔だった。
いつも、家に乗り込んで来ては大暴れする、取り立てのチンピラ達ではなかった。
男は、ちゃぶ台に広げられた一組の書類を、綾人の方に差し出した。
「こちらの書類に、先ほどお父上からサインを頂きました。本日より、私どもの主が、綾人さんの後見人となります」
一方的な交渉の結果を、男はたんたんと伝える。
綾人は、男の指し示す細かな文字が列んだ書類の上で視線をさまよわせていた。
何が書いてあるのか綾人にはわからない。
だが一番下に、見覚えのある筆跡で父の名前が書かれていることはわかった。
その横に押された拇印は、かすれ、二重にずれて乱れていた。
我が子を売り渡す、父親の葛藤の痕だった。
その時、綾人は悟った。
綾人のあずかり知らぬところで、既に綾人の運命は定められていたのだ。
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